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「もっと」という危険
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- 2007/03/30(Fri) -
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久しぶりに記事を書く感じです。
毎日が時間足りません(T T) 氏神様が変わりました。 前の神社へ最後のご挨拶の時、大切なことを教わりました。 記事にするのも僭越だと思っていたのですが、 お伝えしたいことがあったので。 博打をなさる方・・・やはり「もっと」勝ちたいとおもうのですよね? 当然ですよね。この心危険ですよ。 前からお伝えしていたと思いますが、占い師や霊能者などの人たち がもっと力が欲しいという気持ちから魔が入り込むという事を お伝えしていたと思います。 お会いしている人にしか言っていなかったかな? 「もっと」という気持ちは全てに当てはまるようです。 欲がないときの博打は結構当たるんじゃないでしょうか? 嘘っていう位、儲かることがありますよね? 私は一切しないので、解りませんが。 そこからが問題ですよね。 もっと・・・もっと・・・儲かりたい。 だんだん注ぎ込んで財産まで使い果たす・・・(実父がそうでしたが) 魔のエネルギーです。 「もっと」という気持ちから魔がその欲を満たすために 飴をくれます。 でも、陥れたいから、そういつまでも飴なんてくれません。 結局、使い込むほうが多くなるんです。 そういう欲の心を気付くことが本当の試練なのかもしれません。 だから、最後に一文無しになって初めて気付くのも神が与えた 試練なのかもしれませんね。 そう考えると魔と神は共同でどこか繋がっているのか?とも思えたりします。 欲がいけないんだと気付けば魔は入り込まないのですがねぇ。 人生思い通りにならないというのが本音でしょう。 神社の話に戻ります。 神社へのお参りは毎朝いきますが、雨が降る日は行きませんでした。 「明日雨が降ったら、今日が最後のご挨拶ですね」 と心でお話していました。最後のお別れだったと思います。 感動して号泣してしまいました・・・傍から見たら変人ですよね。 甲(かぶと)神社というところでした。 雨が降らなかったので、私の未来を訊きながら、又ご挨拶しに行こうと思って行きました。 手を合わせていてもいつものエネルギーではありません。 それよりも、魔の変なエネルギーを感じて、どうして神社なのに? と思っていました。 訊くどころの騒ぎではありません。もっと色々訊きたかったのにというのがいけないんですね。 御神木に触れて教わりました。 「昨日別れをしただろう。もっとというその欲がこういう結果になるのだ」 最後に教わることだったように思いました。 全てお見通しだったのですね。 「もっと」という事を最後の最後に教わる事になりました。 この神社は小さい所で、宮司さんは普段いらっしゃいません。 だけど、素晴らしい氏神様でした。沢山、沢山、助けていただいて、感謝しています。 「新しい氏神様のところへ導いてください」とお伝えしていた今度の神社は剣神社です。縁を感じますね。 |
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