認識
- 2008/05/14(Wed) -
認識という事を考える事があります。

自己管理からはずれることはないものだと考えています。

絶対を導き出すのに、可能性という段階で絶対とはいいません。

私の様な精神世界ということを中心に行なっていると特に注意しています。

絶対は揺ぎ無い事であり、少しでも違うかもしれないという「可能性」があれば、
絶対だと言い切れないのです。

仮に「思い込みだということが思い込みだ」と言う場合ですが、
ここから絶対があるとは導き出せません。論理学や哲学を御存知ならきっと
御理解できると思います。

思い込みだという事が思い込みだから、思い込みの範囲にしか居ないのです。
思い込みだと思い込んだら思い込みなんです。
だから上記の思い込みは正しいのです。

しかし、ここで、「だから絶対がある」とは導き出せないということです。
絶対にする基準がひとつもないからです。


ここには「絶対がないというこもとも思い込み」としても、その思い込みから脱していません。
思い込みのままなんです。
だから、絶対があるという導きになる基準になりません。可能性止まりだからです。


「絶対があるという可能性があるということも否定できない」ということも
ここでは絶対があるにはなりません。

「含んでいる」の可能性という状態では「絶対にならない」からです。
99パーセントならは、絶対にならないという事になります。

哲学的な話ですが、ここを思い違いしていて、主張されると、どういえば根本の部分に
過ちがあるということを伝えようかと悩むんです。
まして、相手が私の事を無知だと思い込んでいらしたら、私の話など最初から聞く耳などもたない
でしょうし・・・。まあ、無知ですが。

絶対の定義ですが、絶対を導くなら、全てが一致という絶対にならないといけないです。
そうでないかもしれないという可能性が微量たりとも入れば、絶対になりません。

「絶対がないと絶対を言い切っているじゃないか」ということもお話しますと、
「絶対」の定義になっていないものに対して、導けていないという否定であって、
「絶対」の意味が違います。

それは「絶対と言わない」という言葉の「否定」を、絶対にしていると「認識する」こと事態、
屁理屈であって、そうなれば、永遠にこの話は途切れる事がないでしょう。

絶対の定義が違います。曖昧から絶対へと導くわけですから、究極へとより限りなく限定
して行く事になります。だから絶対であると結論になるまで、ふるいにかけて
追い込んでいくからです。

基準は「絶対の証明」であって、「否定の証明だけで」で導くことではないです。
肯定、否定の両方が一致して始めて、「絶対」と認められるものだと認識しています。


そこを理解していない人と話しをしていても、私には何が言いたいのか解らないくらいなんです。

精神世界は絶対と言い切っては危ない世界だと感じています。

違うかもしれないという可能性が確実に入るからです。
思い込みを本気で思い込んで、絶対にしている人を見かけます。
絶対にあるという言葉は私は危険すぎるくらいだと感じています。

意識や認識は個人の範囲です。
認識は経験や知識に依存します。知らないことは理解できないからです。
天使や魔の話を私はしていますが、気をつけているのが、感じる、考えるという言葉です。

絶対に存在すると思いますというのなら、言い切っていないですから、貴方はそう思っているのね。
でいいのですが、絶対にいると言い切ったら、そこに何を証拠にといなるのです。

その証拠が確実に証明できない限り、批判をあびることになるでしょう。

共通の感覚や認識があっても、全員一致にさせる基準を作らない限り絶対はないと
いえます。


無言には、どう思われても構わないという意味と、否定や肯定という意味の主張という意味があります。

しかし、相手がどう考えて無言でいるかは、こちらの想像に依存するものでしょう。
だから、私は確認という作業をしています。

愛も、仕事も。少しでも思い込みから脱し、客観的という共通の部分で共有し、過ちがあれば、
訂正できる状態にしたいと願います。
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