出来ない事
諦めるなと言ってきた自分なのですが、諦めるのとは違います。
他人の事を期待するとその期待に裏切られることで辛くなります。
「そういう人だと思わなかった」がその一つです。
きっと直るだろう、きっと分かってくれるだろうという期待を持ってしまうものです。
しかし、それが不幸の始まり。
出来ない事なのに、信じてあげるのが愛だとしたら、期待が入った信心は、自己愛です。
出来る人を信じて期待するのはいい。応援するのも分かります。そして、その通りになるものだと思います。
しかし、出来ない人もいる。
出来ないものは出来ないと認めるも愛だと思います。
今までは自分に出来て、「あなたができない訳無いじゃない」という期待がありました。
それが息子です。彼女も居ます。
でも、漸く、「そうか、出来ないんだね」と思う事が出来るようになりました。
それが分かってくると、自分は相手に無理難題を押しつけていたんだと分かり始めます。
変に励ましていたから、本人も「出来なきゃ、しなきゃ」を見せてきます。
でも、出来ないんですよ。そして本人は「もっと、やる気を出させてくれればできる」と思い始めます。
いや、それより、「自分はできる」を変に信じてしまいます。
出来ない事を本人も受け入れられなくなるんですよ。出来ない理由を何か別のせいにしてしまう。
永遠にそれを繰り返してしまいます。
だったら、「頑張ったね、もう分かったよ」から、別の道を考えようとする事も必要な気がします。
それを他人は、甘えている。そして甘やかしていると思うかもしれない。
崖から突き落として這い上がれをさせろと思うかもしれない。
でも、這い上がれないのも居るんです。期待して落として良いのだろうか?となるんです。
精神的に弱い子供がいるんです。メンタルを強くさせたくても、強くなれない子供がいるんです。
強くさせたくて崖から落としても決して強くなりません。
本人がメンタルが弱いから強くなりたいと想わない限り他人がしてあげられるものではないのです。
何度か書いてきたかもしれません。親離れが出来ないゴリラを思い出します。
それが息子なのかもしれないと思うと胸が痛みます。
母親から巣立つ事ができず、大人になっても母親の傍にいるゴリラ
その母親が次の子供を身ごもると、母親は近づくゴリラに攻撃を掛けてきます。
あっちへいけと、例外なく息子ゴリラにもします。
彼は巣立てません。冷たくされても、払いのけられても、近づいて逃げる母親でも、ある程度の
距離を置きながらずっと傍に居ます。
子育てが終わって、弟ゴリラが親離れをしたあと、またあのゴリラが母親の傍に寄り添います。
いつもずっと一緒です。母親ゴリラも拒絶はしません。
ある日、母ゴリラは老衰します。死んだ母親を受け入れられなくて、数日間ずっと離れませんでした。
そして歩き出したとき、漸く親離れが出来る時が来たと思いました。
彼は木の上に葉で作った大きなベッドに寝転びます。何日も何日もその葉の上で自分の指遊びをして
暮らします。一度もベッドから降りません。
そのまま、何も食べずにそのベッドの中で眠るようにして死んでしまいました。
どんなに突き放しても、どんなに逃げてもその息子は母から逃げません。
そして母が帰らないと分かると生きる希望もなくなってしまったんです。
自立出来ないものもいる。
悲しい結末ですが、母ゴリラの育て方が問題だったとは思えないんですよね。
近寄るなと攻撃をしても、親離れができなかったゴリラでした。
子供を見ていると、変に「立派になろう」としてしまっているのか、いつか「出来る」を信じたいと思っているのか、
そんな気持ちで今を生活してことが既に自立になっていないです。
彼女と一緒に幸せになる方法を実行するには、まずは現実と向き合わないとならない。
何かそこまでにならない子供を見ていると、私が「出来ない」を受け入れなければならないのかもしれないと
思う今日この頃です。
受け入れるという事が本当に難しい。そう想いたくないから。


