陰の姿
人が見てるから「する」
人が見ていないから「サボる」
神に対する気持ちって普段そのもののことではないでしょうか。
「人が見ていないところ」こそ、本来のその人の姿だと思うのです。
人に見られていない行動を神様だけは見ているという気持ちが信心です。
そうすれば、陰日向なく行動できるのに。
普段から氏神様に感謝の言葉を述べられる。いや、氏神様じゃなくてもいい。
それは、普段の行動として感謝の気持ちが湧くということ。
氏神様への感謝
「生きてこの土地で生活ができる。ここの土地に家も、電気も、衣服も食物もある。こうして
神社にお参りにこれる。その健康に感謝しています。」
という挨拶だけだけど、それも毎日するという気持ちが健気な謙虚の気持ちなのではないだろうか。
人に言われてする、罰が当たるからする、ナルシストでする人ではなくて、
自ら感謝したくなる気持ちこそ、人にも同じ態度なのではないだろうか?
だけど人は困ったときだけ神に顔を向ける。
困ったときだけ、人に頼る。
普段からにじみ出る一言、ほんの一瞬見せる顔だったり、変なところで笑う人
それは普段の態度でその人を知る。
信心と同じで陰で知らん顔の人は困ったときだけ調子いい。
困ったときだけ「お参り」して「願い事」を言う。
そういう人は人間にも同じことをする。普段は助けてくれたことを忘れる。感謝を忘れる。
他人の困ったことにも関心ない。何せ自分が一番だから。神にも人にも関心がない。
陰で悪口を言って、人の前に立つといい人ぶる。
その姿を神様だけは知っている。だから「報せ」があるけど、神様を普段から「いない」という。
陰で「人が見ていなければいい」と思うからこそ自己中になったり、他人のせいにしたりして
人に感謝をしなくなる。
自分の都合のいい時だけ、「神」と天を仰ぐ。自分の都合のいい時だけ「その人に近づく」。

いつもありがとうございます!
人が見ていないから「サボる」
神に対する気持ちって普段そのもののことではないでしょうか。
「人が見ていないところ」こそ、本来のその人の姿だと思うのです。
人に見られていない行動を神様だけは見ているという気持ちが信心です。
そうすれば、陰日向なく行動できるのに。
普段から氏神様に感謝の言葉を述べられる。いや、氏神様じゃなくてもいい。
それは、普段の行動として感謝の気持ちが湧くということ。
氏神様への感謝
「生きてこの土地で生活ができる。ここの土地に家も、電気も、衣服も食物もある。こうして
神社にお参りにこれる。その健康に感謝しています。」
という挨拶だけだけど、それも毎日するという気持ちが健気な謙虚の気持ちなのではないだろうか。
人に言われてする、罰が当たるからする、ナルシストでする人ではなくて、
自ら感謝したくなる気持ちこそ、人にも同じ態度なのではないだろうか?
だけど人は困ったときだけ神に顔を向ける。
困ったときだけ、人に頼る。
普段からにじみ出る一言、ほんの一瞬見せる顔だったり、変なところで笑う人
それは普段の態度でその人を知る。
信心と同じで陰で知らん顔の人は困ったときだけ調子いい。
困ったときだけ「お参り」して「願い事」を言う。
そういう人は人間にも同じことをする。普段は助けてくれたことを忘れる。感謝を忘れる。
他人の困ったことにも関心ない。何せ自分が一番だから。神にも人にも関心がない。
陰で悪口を言って、人の前に立つといい人ぶる。
その姿を神様だけは知っている。だから「報せ」があるけど、神様を普段から「いない」という。
陰で「人が見ていなければいい」と思うからこそ自己中になったり、他人のせいにしたりして
人に感謝をしなくなる。
自分の都合のいい時だけ、「神」と天を仰ぐ。自分の都合のいい時だけ「その人に近づく」。


