父親からして我が子ではないとわかるDNA
多くの男性が小遣いでできる時代になってきました。
これからさらに利用者が増えるだろうと想像ができます。
何せ自分の子供という証拠になるのだから。
しかし、何十年も一緒にいて、我が子かどうかどうでもいいとは思わないものだろうか?
と問いかけたくなるのですが。
人によりけりと言えます。
目的がいろいろだからです。
我が子の証拠として、記念にと思う人もいれば、疑いをはらしたいと思う人もいます。
女性の場合は自分の子供かどうかは、病院で入れ違いされたこと以外あり得ないので、もし、自分の身にそういう事が起きたと想定した場合、事実を知りたくなるかということになります。
自分の場合、疑わない限り検査はしないと思いますが、それでも疑う時、今その子共のDNAをとるだろうか?という話です。
取るかもしれない。
そんな気持ちになります。事実を知る。何もかも受け止める覚悟を決めてからですけど。
子供自身も承諾することになります。
子供が嫌だというのなら、子供の気持ちを優先したいですが、子供も本当の親か?と疑っていたとなれば、事実を知りたいと考えてもおかしくないかもしれません。
血のつながりとは凄い力があるのだと思います。
本当の子供を見つけたい、本当の親を知りたいという衝動になるのですから。
かつての私ならそんな事をしても、今までの親子関係にヒビが入る事をすること自体倫理に反していると言いそうでした。
いや、他人事ならきっとそういいます。
深く本人の気持ちになれば、そう思えて諦めきれるなら最初から悩みはしない。わかったふりするなと思うでしょう。
でも、もしも、自分に降りかかった時を考えると、本当の子供を探さないとは言い切れないような気がしてしまいます。
見てみないフリで生きていく事を選択するわけですから。
背負いこむ気持ちで検査すると思います。
もしも、入れ替えられていたとしたら、本当の子供は今幸せに暮らしているのかが気になって仕方ないと思います。
不幸せなら引き取りたいと考えたくなります。その衝動的思考をしてしまいそうです。
逆なら、子供を渡さなければならないと思います。やはり本当の親が権限あるのですから。
この時、「子供の気持ちを優先に」となるものなのでしょうかね?
もっと根本な事を言えば、本当の子供じゃないかもしれないと疑った時点で、倫理に関与していると思います。
病院を疑う、伴侶を疑うことが、そもそも、傷をつけてしまう、まして態度に出ていないとは限らないからです。
例えば「本当に自分の子供だかわかったもんじゃない」とか「そんな子供はママの子供じゃない」という言葉を発しないとは言いきれないからです。
そしてその疑いは子供のみならず、伴侶も、自分自身も傷つけていることになります。
だから疑いで終わらせないで、しっかり事実を受け止めてみる。
そのうえで、もしもの時、今まで同様変わらぬ愛で愛していく事ができるかを試されているような気がします。
手軽にDNA鑑定ができるようになった時代になりましたが、妻自身も夫の子供じゃない事がわかっている人もいます。
今更、ご主人がその証拠を取りたいと言ったとき、夫婦の愛の真実とは何かを問われる、そんな時代になってしまいました。


