気付き
- 2008/08/17(Sun) -
気付きという事をリーディングしていくと、
他人の態度が気になるばかりで、自分の態度に気付けない時がある。

いつも自分より優れている声が聞こえないからだそうです。
自分の振る舞いに対して関心がないんでしょうか?
自分を棚に上げるということらしい。

人から、もし、冷たそうに見えます。と言われたら、それを言った人が
悪いのではなく、そう思わせる態度にも問題があると感じ取れる人間でありたいです。

誤解もそうです。理解しようとする気持があれば、悪い意味に解釈するより、
正確な解釈を求めようとしたいです。

嘘や秘密でごまかすのではなく、自分の気持に正直になって、心が開く会話が
出来れば幸いですね。
人から注意をうけたら、何故相手がそう感じたか、自分が何をしたのだと振り返れる
余裕を持っていたいです。

だから、それが出来ない人との関わりで、自分なりに、出来ないものは、
出来ないというのもまた、学びの様な気がします。
諦めるのではなく、相手を変えることは出来ないと理解することなのです。

相手にあわせる自分になれるか、なれないかという事なのかも知れません。
人には相性があります。万人全員に一致するわけがありません。

自分も人を選び、相手も自分を選んでいるかということなのでしょう。

今では理解してもらうように話するだけでなく、もしも最悪の場合は、その人とは
つながる事ができないのだと切り替えることも必要だと感じています。
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難病
- 2008/07/13(Sun) -
リーディングしていくと、人との関係は必ず、学びが関係しているように思います。
難病は御本人もですが、家族の経済的、精神的負担が関わってきます。

聞こえてきた言葉です。
「一人で生きていけない事を痛感させている
サポートを必要とさせることで、他人が自分の思い通りにならない事を知る。
不自由になることを恨むのではなく、不自由だからこそ理解できた、他人の
思いやりを学ばなければならない。

周りは看病の為に、自由を奪われ、精神的な負担を伴うことで、病人のことを、
心ある人として関わる事ができるか、
病人との関わり方で、魂が現れる一番解りやすい結果が出る。

自分の為でなく、他人の為に思いやる心が育つ時、感謝を知る時なのだが、
中には反対にイジメになって、心を闇(病み)に囚われるものがいる。

魂の選別が出来る」

自分が一番辛いと思っているだけじゃ、いけないんでしょうね?
病人も感謝を言葉にすることで育つ関係があるのだろうし、周りの人も
辛いだろうという気持で接していれば、自分の健康にまた、感謝します。

思いやる心について、自分と向き合う修行なのかもしれません。


痛みというのも考えさせられています。
私は腎臓に結石がいくつか出来ています。
尿管に結石が落ちるとき、七転八倒の痛みを何度となく経験しています。

しかし、一番最近になった尿管結石はトマトジュースの様な尿なのに、
痛みがないんです。医者も驚いています。いつもなら、入院なのですが、
薬だけ貰って、家にいましたが、石が出てきました。今でも、その石大事にしています。

便秘症の私は苦しくなって、困って娘と二人で同時に下剤を飲みました。
晩に飲んで翌朝快便の予定です。

しかし、これは相当強かったので、兎も角トイレとお友達でした。
娘は動けなくなるほどで、さぞ、痛かったでしょう。うなっていました。

私は、全く痛みがないので、トイレの側に居ないと出たくなる瞬間に
間に合わないような状態でした。半日何度となくトイレに入っていました。


末期癌で入院していた知り合いの人を見舞いに行ったとき、動けないのに、
「痛みがないのに、こうして入院させられているんだよ」
と仰っていました。

モルヒネを打っていたようですが、御家族の方に聞くと
痛いと一度も言った事がないのに、こうしてモルヒネ打っているのよ。
痛いと苦しんでいられるより、ずっといいけどとお話されていました。

どうしてこういう事が起きるのか、解りませんが、
私も痛みが伴わないことに感謝しました。
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祈り
- 2008/06/22(Sun) -
無宗教者です。

日本人はこの立場の人が多いと思いますが、祈りということをリーディングしてみました。

光る刀が見えてきます。・・・スサノオノミコトが直ぐに浮かびます・・・私の氏神様です。
私は朝、氏神様へお参りに行く習慣があります。

この土地に御厄介になっていますという感謝の気持でした。

その刀を使っているのは神です。
真剣という言葉が浮かびます。その刀で罰が下ろされるかもしれないという
ぎりぎりの何か突きつけられる気持ちになります。

そしてその刀が振り下ろされなかったことへの感謝が湧いてきます。

祈りって神への感謝と漠然に解っていましたが、これが、本当に生かされていることへの
感謝って身にしみて感じました。
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許すこと、許させること
- 2008/04/16(Wed) -
今日はこのことについて書かなければならないような気配です。←なんの気配だ^^;

許すこと。受け止めるということ、受け止めた手をそっと持ち上げるような気持になります。
許すとは、もともと、上からの立場の言葉なのかもしれません。
「許してあげる」という行為そのものが、浮かんでしまいます。

愛と許すは違います。

愛しているから許すのではなくて、愛しているから許せないこともあります。

でも愛があれば、待つ事ができます。寄り添うことが出来ます。分かり合える様に
話し合いができます。そして相手の心の痛みを理解することで、深まる愛があります。

そこに押し付けや、喧嘩になるのなら、それは大変残念ですね。愛が育ちません。
喧嘩は大嫌いです。



どうでしょう?許す、許さないで愛を量るのは?それが愛だと思えないのですがね?

許されること、感謝の気持が浮かびます。

できることなら、その感謝に応えようと努力したいですね。二度と同じ過ちをしないと。
許されたということに感謝があれば、同じことは二度としないものだとおもいます。


でも、私はひねくれているのでしょうか?
許されたと思う側の気持もどこか、ずるいような気がしてしまいます。
許されたことへの感謝ってその場だけの様な気がしてならないです。
許してくれることに甘えて、また、同じ事をすると何故か感じてしまうのです。

また、許してくれると・・・思っていると感じてしまうのです。

だから、直らないと。
そんなことの繰り返しって事になりがちです。振り返ってみてもそうだもの^^;

許す事は理解したことにならないですし、分かり合えた事にならないです。
話し合いが出来きて始めて、分かり合え、信じあえ、深まるんです。
それが出来なければ、愛は育ちません。


誤解が生まれたら、許すではなくて、理解しあうよう時間をかけることのように思います。
話し合い、ふれあい、育てる愛があるのだと思います。
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どん底
- 2008/04/01(Tue) -
窮地に追い込まれたり、絶望感になったり、辛い時、死にたいと想う事もあるかもしれません。

どうしてそういう人生なんだろう、もう一度やり直したいと・・・

自分の選択の失敗だとしても、神様が最初から予定していたものと私は思います。

乗り越えなければならない人生の勉強だと思います。

ただ、神様が支配できないのは、感情。

どん底で、辛いよ、辛いよと騒ぐ時間が長ければ、長いほど不幸ですね。

この時「あとは、登るだけだと思うか、この辛さはいつまで続くんだ?と
嘆いているか」で乗り越える辛さは全く違うような気がします。

後は登るだけと思えば、その上り口を探す強い心になるでしょう。でも、辛いよと
泣いていれば、思考も行動も継続だけです。

「これも神が予定していた通り」とした試練の道だとしたら、受け止めるしかないでしょう。
ここから逃げたら、また、同じことが違う形で起こります。

抵抗も、もがきなら、それも不幸ですね。

だから、出口があるはず、その出口を通らなければ、次の階段には登れない」
そう考えて生きています。

相手がいるのなら、相手が変わるのを期待するのではなくて、自分が変わるしかありません。

私は「相手は変わらない」といつも思っています。
気持の上で乗り越えていくようにしています。

「我慢するか、卒業するか」ですね
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